あべこべジャーナル  ( ニュースチェック)

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障がい者は邪魔者だから殺すという論理の背景に新自由主義

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津久井やまゆり園の障がい者19人を殺害した植松被告の「障がい者は生きる価値がない」という思想は、いわゆる優性思想であり、現在の政府・自民の発想とつながっているように思う。自己責任論、新自由主義のそれである。

 

植松は犯行当日、職員を結束バンドで縛って施設内を連れまわし、しゃべることができない障がい者かどうかを職員から聞き出しながら、次々と包丁で刺していったという。

 

なんという残忍さだろうか。いや、それにとどまらない。犯行予告のような衆院議長あての手紙を見る限り、植松は障碍者を抹殺することが社会の正義あるいは社会の利益にかなうと思い込んでいたふしがある。

 

こういう発想、思想こそ反社会的なのだが、それにしてもこうした思想は政府・自民の思想や政策の一面を見事に表していると私は思う。税制を見ても、予算編成を見ても、社会保障は削られ、富者と強者優遇。社会保障のための消費増税だといいつつも、政府は福祉予算の抑制に熱心である。こういう政策の下では、俺たちの税金を無価値な人間に使うべきでないという植松的発想がはびこってしまいかねない。

 

植松は衆院議長あての手紙で、自らの行動を誇らしげに語っている。信じがたい感覚だが、殺すのが社会のため、国のためであり、むだな予算をふやさないための殺人だからし衆院議長にほめられるのではないか、と考えていたようすがうかがえる。とんでもない話なのだが、植松はその考えを当時も今も持っているとされる。

だからこそ「安倍総理にお伝えください」といった表現が手紙に盛られたのだろう。しかも、犯行当時には「安倍首相、やりました」とたしか叫んでいたか、発信していたのではなかったか…そうした記事を読んだ記憶がある・

 

今回の公判で、もうひとつ注目したのは、遺族の家族が「娘は美帆。19歳でした。自慢の娘でした」と明かして取材に応じたことだった。差別があるからといって、マスコミの取材がうるさいからと言って、だいじな娘を匿名にし続けてはいけない、と考えたのだろう。

そうだ。被害者たちの人権を考えるなら、うやむやの死にしてはならない。きちんと名を告げて、追悼したい。そして、こうお願いしたい。

「ほかの遺族さんたちも、犠牲者の名前を教えてください。私たちも、それを知ることで、もう一度考えたいのです。大切な命を、みんなで大切にしあえる社会をつくっていくために」と。